偽善は善
おばあさんがスーパーでカゴにたくさんのものを入れてる時、人が倒れているのを偶然発見した時
助けることが、助けようとすることができるだろうか
それとも傍観者で終わるだろうか
特に日本人は、何に関しても人の目を気にして動けなくなる環境にある、と感じる
それが恥ずかしいことでも、平凡な日常を送ろうとも、目を気にして生き、行動を縛られているようにさえ感じる
慣れていることには、縛りの制限を軽くして動けるのだろうが、もし人があからさまに困っている状況に偶直面し助けたのなら、場合によっては表彰されたりもする
しかし、その行動自体に、どんな思いを込めて助けたのかは、自分自身にしか分からないし、本心が何なのかは、自分でさえ分かっていない事が多い
自分が良いように見えるからと思って人を助けたのか、それとも困っていると言う人を助けたいという純粋な心のみをもって助けたのか
心の選択肢として見てしまえば、可能性は無限に広がるが、実際のところ、事実はそうだろうか
どんな思いであれ、行動自体は嘘をつかない
選択肢すら一択のみである
人を助けたというのは、つまりは相手が助かったという事になる
この一連の行動の裏に、悪意や恨みを込めて行う、すなわち偽善で助けたのも、行動のみをなぞれば善意
確かに、人を助けたことで法を犯し捕まったとなれば、極論偽善と言うより、ただの犯罪者になってしまう
しかし自分自身が犠牲になった事が、行動において悪行と呼べるわけではない
この行動は結果からたどれば気持ちに関係なく善としてとらえられると解釈したまでである
テーマとしては結局、行動の内容の議論ではなく
人を助ける行動自体は、周りの目は関係しない善的行動なのである
相手が困っていない状況を作ったのは助けた本人なのだから
善の気持ちではないが、悪意ではない偽善は、つまりは善なのである
助けるは、文字通り善のみであり、偽善や悪意も、善の円と円で交わっている部分があると言える
行動には、頭で考えただけの言葉と何の合致性が無いという事を理解していただきたい