人生について考えるのは「縛り」から抜け出そうとしている時ではないか

私は、最近になってではないが、高校生くらいの頃からたまに自分の人生とは何なのかを考える時があった

結論からいえば、人生なんて確かに無意味というかというかただの人間一人の何十年の生命に過ぎない

人生に意味があると思う人もいると思うが、実際は単なる思想である

しかし私は人生は結局無意味になると思ってしまう

他人の心に残ろうとも、自分はもう存在しないのだから無意味である、という考えカである

日本なら小学校や中学校で義務教育を習い、高校に行ったり就職したりして、結婚して老いてゆき、死ねば何も残らない無となる

だから、人生に意味を見出そうとする人を私は尊敬する

生きることに意味を見出そうとする方が難しく、無意味だから何も考えないという考え方の方が後先何も考えないので楽である

 

私は、人生の中で本当に楽しいと感じたことは、部活動や映画を観た時であるが、こんな時に自分の人生を考えたりはしない

楽しい時などのプラスの感情の時に、自分の人生とは何かなどどうでもいい

問題は負の感情になる時、自分は何なのか、楽しくない人生だなと思うのだろう

人生について動考えようと、それこそ死ぬことが自由だと考えたってどうせは生きることになる

死ぬ事自体は自分の自由だが、死のうと行動まではしないし、「人生は年数を積み重ねようとも最後は死んで無価値だ」と考えても、結局は死ぬまでその体でその魂で過ごすことになる

考え方はどうであれ、自分という人間としてやっていくしかないということである

私の考え方になるが、「人生は無価値になってしまう」「自由に生きる」ということは、どうせ人生はちっぽけで意味がないものになるなら自由に生きてもいいのでは?

と考えた

しかし親の遺伝や教育・環境要因から、自分の考え方が親に似るように、あれはだめこれはだめと言われた人間は、無意識に自分の行動を抑制していることに気がつかない

benesse.jp

また知ったところで、抜け出せるとは限らない

自由とは意味的にどんな感覚かイメージできるのだが、行動では普段の「習慣」がついてくる

習慣はこんな状況ではこんな思考をするというのを無意識に行っており、自由な行動には必ず習慣が自由な行動を制限してくる

しようと思ってするのは自由ではない

「自由に生きるという行動」に縛られてしまっているとも考えられる

自由は縛られている事が分かっていて初めて成立するもので、無意識の中では縛られていることが分からないため、自由になることはできないのである

人生について考えるということは少なからず、今の自分を変えたいと思っているのではないかと感じる

現状が良くないことを知らせており、抜け出そうとしている思考なのではないかと思う

 

分かりもしない人生についてという考え方は、脳からの「縛られているから助けて」と言っているSOSなのではないだろうか